防災特別委員会

     



 
第4回 2006年1月19日
湯沢 晃典
 私の災害防止の原点
 昭和53年(1978年)、私は灼熱の国インドネシアのスマトラ領に立っていた。そのスマトラ領北スマトラのトバ湖(琵琶湖の数倍の広さがある)から流れ出るアサハン河の水量は毎秒100トンを超え、マリリン・モンロー、ロバート・ミッチャム主演のアメリカ映画「帰らざる河」もここまでかと思われるほどの激流のうえ、両岸は数百メートルもある切り立った絶壁である(地元の人はここをタンガと呼んでいた・・・・・地元の言葉でタンガとは梯子のことで、梯子がなければ登れないと言う意味らしい)。眼下は凄まじく渦巻く激流、頭上は断崖絶壁、そして毎日30度を軽く超える灼熱の地獄でタンガの地にコンクリート式アーチダム(インドネシアでは最初のアーチダム・・・・・インドネシア通貨の100ルピー札の裏側にこのタンガアーチダムが印刷されている)建設の施工管理を行っていた。   
                                   
 さて、このタンガ地区の基礎岩盤はイグニンブライト(夜、光る石という意味のラテン語)と呼ばれている岩石で左岸側から右岸側にかけてクラック(割れ目)が発達していた。私の上司であるM所長は太っ腹で、現場経験も長く職員の信望をあつめていた。そんな所長から「湯沢君、左岸側から右岸側にかけて延びているあのクラックを下盤として岩盤すべりは起きないかね」、「そうですね、こうも毎日発破をかけていればそのうちクラック面が開いてきて岩盤すべりを起こす可能性は十分考えられますね」などの会話を交わしていた。      
                                     
 一方、右岸側ではアサハン河の河川を切り替えるべく仮排水路トンネルが掘削され、そのトンネルも貫通し、コンクリートの巻き立て作業の準備中であった。そんなある日、M所長が心配していた左岸側のクラックを下盤として岩盤すべりが発生した。岩盤すべりを起こし崩壊した岩石のボリュムは定かで無かったが、何しろ毎秒100トンの水が流れている激流、崩壊した岩石で河が堰上げられアット思うまもなく水が完成まじかのトンネルに流入してきた。トンネル内にいた日本人とインドネシア人は即座に支保工にとび移り一命を取り留めた。しかしコンクリートを打設すべくトンネル内に配置してあったトラックとコンククリートポンプ車は一瞬の間に流失してしまった。幸い人命に損傷は無かったものの一歩間違えれば大惨事になるところであった。                        
                                    
 その後、このダムの左岸側にはPCアンカーが施工され、発破(ダイナマイト)量も制限して無事ダム基礎岩盤の掘削を完了、ダムコンクリートの打設を開始、3年後には完成(高さ70メーターのインドネシアでは初めてのコンクリート式アーチダム)してアサハン河の水をせき止め、今では冒頭に述べたようにインドネシアの100ルピー札の裏側にその雄姿が印刷されている。                          
                                     
 私はこのダムの完成後に帰国し、その後も国内・海外の現場に赴任していろいろな現場を経験してきたが、いつも思うのはリスクがありながら、事故が起こる以前にそのリスクを解除できなかったことである。今から2年半ほど前に少しでも社会貢献ができないものかと思い技術士会の防災特別委員会に入会させてもらい減災に取り組んでいるが、私の災害防止の原点はインドネシアのタンガアーチダム建設にあるとの意識は忘れていない。
   

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