男女共同参画推進委員会のホームキャリアモデルイクボスモデル 石野智子さん
いしの ともこ さん
大学を卒業し、電機メーカに入社後、EDI(※1)のサービス事業を立ち上げるプロジェクトに配属されサービス事業を立ち上げるノウハウを学びました。その後、製造システムの部隊に異動し、自動車を始めとしいろいろな工業製品の作りかたを学びました。数学専攻の私にとっては新鮮で、とても楽しく工場見学はツボにはまりました。あるとき自動車会社から「夢工場」の構想書を書いて欲しいと言われ、構想書作成が収益を生むビジネスになるということを知りました。これがのちに私が業務改革コンサルティングビジネスを立ち上げるきっかけとなりました。その後時代はロジスティクス、SCM(※2)と幅広い考え方に変わっていき、担当する世界も広がっていきました。当時T型、π型人間という言葉が流行っていましたが、新しい領域に次々にチャレンジし徹底的に深く学ぶ姿勢を「剣山型」と称して貪欲に挑戦しました。やれることが広く深くなればなるほど全体俯瞰で問題構造の本質が見えるようになり、個別最適の足し算が全体最適にはならないということを学びました。業務知識やスキルが広がれば広がるほどコンサル単価が面白いように上がり、注文が取れるようになり、ビジネスの面白さにはまりました。当時からスペシャリストの方が評価されていましたが、敢えてジェネラリストの看板で仕事をし続けました。これが異端児への道の出発点となりました。
※1:EDI(Electronic Data Interchange)電子データ交換
※2:SCM(Supply Chain Management)サプライチェーンマネジメント
注文が増えてくると何とか多くの企業に応えたいと思うようになります。自分のエンジニアリング技術を体系化し手法化しました。そんな私にチャンスが来ました。自分の手法を核にしたコンサルティング部門を立ち上げ、部長職として牽引する話でした。当初反対の声が多かったのですが、好業績を重ねていったら周囲の目が大きく変わっていきました。チームビルディングとしては、入社年次に関わらず1人ひとりの個性や存在が素晴らしいものであるという意識をメンバーに持ってもらい、些細なことでも「ありがとう」を互いに言うような尊重し合う環境を作り、上下関係なく率直に議論できる雰囲気にしました。また、全責任はリーダーの私が持つと話し、メンバーの裁量でできる限り自主的にやってもらえるようにも配慮しました。その結果、部下たちもそれぞれが顧客から感動したと言われるくらいに成長し、部下同士で密に情報交換して助け合う自慢の組織になっていきました。
稼いでいると組織の規模を大きくしなさいという話になります。部員が増え教育が追い付かなくなりました。それでも、自ら余計に働き予算達成するのがリーダーだと息巻いていました。これが間違いでした。組織なので全員が稼げるように育成するのがマネジメントであり、自分で補填していたら組織としていつか破綻するということに気づきませんでした。部下がどんどん減っていき組織が消滅してしまいました。これで終わるのは悔しいという無念が残りました。そして新規事業を考案しました。ソフトウェアをブロック化し組み合わせることで、多種多様な顧客要件を少ない工数で業務アプリケーションとして実現するシステムで、後にMONOSOLEILという商標名で製品化したものです。日本の製造業の場合、システムに求められる要件がきめ細やかであり多種多様になるため、パッケージを作ってもほとんどがカスタマイズを求められ、経費も時間も掛かり改造に融通が利きません。これを解決するものでした。構想書を持ち回って社内説明に奔走しましたが、誰も成功したことのないリスクも大きそうな事業に対し、耳を傾けてくれる人は殆どいませんでした。このころには部下1人になっていました。
そんなとき、出向して覚悟を決めてやるなら投資するというグループ会社の社長に出会えました。出向先ではベテランの凄腕システムエンジニアが確保でき前途洋々に見えましたが、大規模システムのプロジェクト取り纏めを行う立場で詳細設計をグループ会社にお願いしてきた私が、今度は詳細設計をするプロの組織に来て設計のアプローチを変えて欲しいと言うのです。上司だからと言っても、なかなか話を聞いてもらえません。現実の難しさを知りました。それでも諦めるわけにはいきませんでした。立ち上がりは苦労しましたが、ここでもチーム員の価値を尊重するという姿勢を見せ、「ありがとう」を互いに言うことから始めました。徐々に思いが通じるようになりました。どんどん斬新なアイディアも出て、互いを思いやる自慢の高パフォーマンスの組織になっていきました。一方で、このプロジェクト外の反応は相変わらず厳しく、できるはずない、無駄遣いだという感じでした。それでも、チーム員の誰もが成功を信じ、話に少しでも耳を傾けてくれた人、厳しくても意見を言ってくれる人に対し感謝の気持ちを重ねていったら、賛同者がどんどん増えていきました。前述したMONOSOLEILと名付けたその製品が完成し、初号機が顧客先で大きく成果を出しました。ようやくやってきたことの正当性が証明できました。国内外特許も取得し、日経電子版にも取り上げてもらい。日立製作所の社長賞も受賞できました。信じて応援してくださった多くの人たちにようやく恩返しができたと思いました。
経験が私の精神力を鍛えてくれました。最初はなぜ理解されないのだろうという悲しい気持ちに満ち溢れていましたが、苦労を重ねるうちに自分自身の問題であることに気づきました。進まないことを環境や他人のせいにするのは簡単です。しかしながら、自分の成長のためには他人を変えようと思うより、自分ができることを地道にやっていくことが着実だということを知りました。斬新なことにチャレンジしているのだから、理解されなくて当たり前であり、自分自身との戦いに尽きるのです。話を聞いてくれる人がいるだけで感謝するべきことなのだと思いました。また、チームビルディングの意識も変わりました。組織拡大への対応は、リーダーが頑張ることで乗り超えるには限界があり、チーム員の価値を尊重し誰もが成功を信じて協力する一体感を作ることこそが、大きな成果に繋がるということも学びました。
現在、2度目の出向となる(独)情報処理機構(IPA)では、元気にしたい対象が個々の企業から日本の製造業全体に変わりました。産だけでなく官や学にも思いが同じと言ってくれる仲間もできました。なぜまたチャレンジするのでしょう。困難な道を一緒に歩む仲間との絆、達成したときの感動が忘れられないからなのだと思います。最後に、仕事人間の私を支えてくれた家族、息子に大きく感謝したいと思います。
必要なのは、一歩踏み出す勇気、覚悟、情熱、感謝の心だと思います。自分1人の力では決して達成できません。部下や周囲の人たちにどれだけ支えられているかを常に意識し感謝し言葉にすることをお勧めしたいです。
技術士はプロフェッショナルエンジニアの国家資格であり、名刺に資格を記載することで、常に周囲からそういう目で見られます。技術だけでなく技術者倫理、さらには人としての器や仕事に向き合う姿勢も含め、総合的にバランスよく研鑽していくことが求められると思います。そういう意味で技術士の資格は、私にとって常に自分自身を振り返る拠り所になっています。
※注:記事は2024年9月現在のものです。
経営工学部門(2008年取得)
1987年 (株)日立製作所入社
2008年 技術士(経営工学部門)資格取得
2011年 同社でコンサル部門立上げ、センター長(部長職相当)に
2015年 同社で担当本部長に
2018年 日立グループ会社に出向し本部長相当職として事業創生を牽引
2021年 (株)日立製作所の本部長相当職として復帰
2023年 (独)情報処理推進機構デジタルアーキテクチャ・デザインセンター特命担当部長として出向開始
※イクボスとは、育児とボスを組み合わせた造語です。 部下のワークライフバランスを考え、その人のキャリアや人生を応援しながら、組織の業績も結果を出せる上司(経営者や管理職)のことを指します。(男女共同参画推進委員会)
日立社長賞受賞に際し本文中の初号機を納めたヤマハ発動機(株)よりいただいた記念品
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シンガポールにて車載システム構築責任者だったときに息子・母と
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