男女共同参画推進委員会のホームキャリアモデル女性技術士キャリアモデル 木戸ゆかりさん
きど ゆかり さん
私と地球科学との出会いはいつ頃だったでしょうか。
小学生の頃、父とよく屋根瓦に寝っ転がって星を見たのを思い出します。都会のスモッグの中、星の数は少なかったのですが、月や惑星はよく見えました。カール・セーガンの「コスモス」を一緒にみたのも、父とのよい思い出です。
小学校、中学、高校、そして大学の理科の先生方。それぞれがとても個性的で私の理科熱にしっかり火を灯し、自然と触れ合う機会もたくさんいただきました。地学科への興味・モチベーションを保ち続けられたのは、理科の先生方のお陰だと思っています。
大学進学を決める際、地学科を希望したら、肝心の父が大反対。自身が学生時代に地学部に所属していた経験から、女性の極めて少ない分野であり、オタクな男子学生ばかりで、ついていくのが大変に違いない。そこで互角に戦えるとは思えない、もっと実用的な分野の選択をするように、と譲りませんでした。これを押し通して、千葉大学理学部地学科へ進学。そこでは多様な地学分野の研究活動が展開されていました。3年次の航海実習が地球物理学を目指す決定的なイベントとなりました。日本のはるか沖合500 kmの北西太平洋。水深4,000 mの海底下にどのような地殻構造が広がっているのか、ダイナマイト発破による超音波エネルギーを用いて、海底面やその下の地下構造を探査するという実験でした。この爆破地震学との出会いこそ、地球物理学の中でも、海洋調査分野へ進むきっかけとなりました。
そもそも海底地殻構造探査に興味を持ったのは、小さい頃から関東大震災に遭ったという祖母の話を繰り返し繰り返し聞かされ、さらに私の学生時代には地震活動が活発化していたからです。変動帯に位置する日本という国の土台には興味がありました。祖母は、関東大震災をもたらした大正関東地震の時、小学4年生でしたが、かなり記憶がはっきりしていて、次の手記を残してくれていました:
大正十二年九月一日
突然グオーッという聞いたことのないような大音響と共にしゃがんでいた身体が下から突き上げられた。と同時にそこいら中が滅茶苦茶に揺れ動いて”地震!表にでなければ。。。”とにかく、半分転がりながら走りに走って気が付いたら表の広い道路に出ていた。。。随分永いと思った最初の揺れが漸く治まったとき、母が両腕に二人の幼い妹を抱えて家から出てきた。私は、納戸の前の暗い廊下から台所を抜けて裏口から表に向かった。走りつつ何度か転びそうになって何かに掴まりたいと思ったが、そこいら中が激しく動いて居て何も掴めなかったのを覚えている。戸も柱も円く弧を描いている様に見え畳は盛り上がっていた様な気がする。表に出た途端に後ろで凄い音がして何かが倒れた。隣家との間の細い路地を通って広い通りに出たのだがそこも私が通り抜けた後、直ぐ土塀が倒れ土煙がもうもうと上がっていた。とにかく家の中にいた人間はすべて無事で外に逃れたのだが、それから後何度も揺れ戻しが来て何しろ恐ろしかった。私の家は浅草小島町という所にあって見る限りでは近くに潰れた家はなかったと思う。家の前の大きい風呂屋から裸の女の人がゾロゾロ出てきたけれど男の人の姿はなかった。その時点で火も出なかったから消火していたのではないだろうか。火事より地面が音もなく揺れ続けるし倒れかかってユラユラしている電信柱や風呂屋の煙突が今にも私達の頭上に倒れて来はしないかと上許り眺めていた。其にあの日の太陽の黒味がかった赤色の無気味だったこと。之は後日友人達の間でもよく話題になった。。。西郷さんの銅像の下の石段に着いた頃は夜だった。空は真っ赤であたり一面人々の山、足元も見えず人の波に押されながらようやくとにかくゴザを敷いて皆が座れる場所を見つけた。そこに落ち着いて見ると遠いと思いながらもまはりはぐるっと火が燃えているし近くでは”お父さーん””お母さーん””XX町の△△さーん”という呼び声、動物園で何かが吠える声で一晩中生きた心地がしなかったのを覚えている。そして翌二日の朝は”松坂屋に火が付いた””荷物は捨てろ”とここも安全と言えなくなり火の粉も飛んでくる様になって焼けていない本郷方面に移動しようという事となって歩き出した。。。境内にはやはりぎっしり避難した人々が居たがその間を”水、飲み水いりませんか””握り飯売ります”という人が現はれ、母は子供が居るので用意があると言って断わったが、周りには買った人も居た。そしてその直ぐ後に腕章を付けた人が”毒が入っているから食べないように”と怒鳴って歩いて私はびっくりした(若林房子寄稿:東京大学地震研究所コミュニティ誌「ERIちゃん」より抜粋)
祖母の手記は、地震後の家族との再会、引越し、病気とまだまだイベントが続くのですが、地震時の鮮やかな描写、恐怖心の中で自然現象と対峙した子供心に映った世界が、とても生き生きと伝わってくるものでした。繰り返し聞いていましたが、ちょうど大学で地震学を学ぶようになり、コミュニティ誌に記録として掲載してもらったおかげで、多くの人の目に触れる機会を得ました。
ポスドクを経て、阪神淡路の大震災後に「海底から地震の巣を探るプロジェクト」が立ち上がり、育児中の私でも、運良く現「海洋研究開発機構」の前身の「海洋科学技術センター」に研究員として採用されました。同業者の夫や両親、ベビーシッターさんらに支えられながら、海の見える研究所に通いました。日本初の海底の穴掘り船の建造計画も進んでいました。日本列島の太平洋側の海溝域の構造探査を行いながら、初の掘削点の選定計画に加わることができたのは、たいへん光栄でした。科学技術の粋を集めた掘削船「ちきゅう」は、乗下船にヘリコプターを用いたことから、短期間の出張が可能となり、育児との両立に役立った。1週間くらいでかけてくるね、と息子に言い聞かせて、両親らに後を頼んで、ヘリポートへ向かいました。ヘリコプターで「ちきゅう」に乗るためには、ヘリコプター脱出訓練をはじめ様々な洋上サバイバル訓練をクリアして、修了証を取ることが必要でした。海で仕事をする者として、安全管理に常時気をつける姿勢を学びました。
船上では、研究者だけでなく、船舶従事者、掘削業界のエンジニア、国際法に長けた企画官とも同乗し、多様性ある職業に出会いました。その中で、科学と技術と安全管理をセットで見渡せるプロ意識の高い『技術士』の資格に憧れるようになり、いつか取ろうと狙っていました。
所属の学会の男女共同参画委員会では、学会保育室を立ち上げ、家族で学会に参加し、「活動」と記録していました。日本技術士会の男女共同参画推進委員会の活動は、女性のリーダーシップや地位向上を目指すべく最先端を走っていました。とても眩しい存在であり、いつか参加したいと思いました。
大正関東地震から100年が過ぎ、北陸や九州で大きな地震災害が起き、地震防災が取り沙汰されるようになりました。デジタル画像も進化し、100年前の記録も掘り出され、まさに祖母の目に映った世界が展開されていたことを改めて知ることとなりました。後世に残されたものとして、こうした事実を引き継いでいくこと、様々な自然災害の対策を練っていくこと、繰り返しの防災訓練は、一生続けていこうと誓っている次第です。
今回、日本技術士会という産官学の連携最前線に入会したことから、ここでの情報発信や普及広報活動は計り知れない効果があると期待しています。机上やVRを用いた訓練活動を通じ、内外に伝え続け、かつ自身の見識を深めつつ、推進委員会の活動に関わっていきたいと思っています。
※注:記事は2024年9月現在のものです。
■キャリア
東京都出身。大学卒業後、中高理科教員になるも挫折し、再度、修士課程に入り直す。
博士課程中に米国の掘削船に乗船し、グリーンランド南東沖航海に参加(1995年9月)し、パーフェクトストームに遭遇。安全監理の大切さを身をもって知る。
卒業後は国立研究開発法人 海洋研究開発機構(JAMSTEC)に就職。現在、海洋科学技術戦略部 海洋STEAM推進課に所属。
■趣味と特技
登山やスキーが子供の頃からの趣味。大学時代には山小屋暮らしの経験あり。2010年から地元の消防団に入団。2011年3月11日は八戸港の「ちきゅう」船上で被災。消防団のネットワークに救われた。
以降は、救命講習指導員の活動や放水訓練に勤しむ。
■資格
技術士 応用理学部門
教育職員免許(中学一級・高校専修)
普通自動車、二輪
博物館学芸員、無線従事者
■写真説明
[1]はるか下方のヘリデッキを見下ろしています。実は高所恐怖症で足がすくんでいるんです。
[2]一般・子供達向けの普及教育活動の一環として、海底の穴掘りをしながら物理情報を得る測定器機を子供達に紹介しました。重さが300kg以上もある細長い筒にセンサーが埋め込まれており、海底下を掘りながら物理計測を行います。
[3]後ろに積まれたダンボール箱には、ダイナマイトが。導火線に火をつけて、海へ放り投げながら、人工的な地震を起こし、海底に伝わる波の特徴を調べます。
[4]安全監理監督の指示に従いながら、ヘリデッキに降り立ち、決められたルートを通って安全説明を受けて乗船です。
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