男女共同参画推進委員会のホームキャリアモデル男性キャリアモデル 高橋健一さん
たかはしけんいちさん
私が自治体に就職したのは、バブル期でインフラ整備の予算がどんどん増えて行った時期と重なります。就職直後の主な業務は、道路整備でした。当初は “直営”での仕事であり、自分たちで測量し、図面を描き、構造計算や数量計算、積算を行いました。連日連夜の残業でしたが、モチベーションを支えたのは、造ることの喜びがあったからだと思います。
その後、直営から委託へと移行しましたが、直営を経験していることで、受注者の苦労もわかりますし、インフラが出来上がっていくプロセスを想像することも容易です。測量、設計、工事積算、工事監督から道路の引取検査、苦情要望とりまとめ、道路補修の緊急対応、区画整理事業での用地買収、換地設計、造成工事の設計や監督、条例制定、許認可事務と仕事は変遷しています。コンクリート打設や舗装作業、溶接などもほんの少し経験しました。
実際にモノが造られる現場をできるだけ自分の目で見ることは今でも大事だと思い、機会があるごとに見るようにしています。
ある河川の橋梁整備に携わっていた頃のことです。橋を架けるのには、河川の占用許可が必要で、許可権者の指示に合わせて橋桁の架設工法を決定していましたが、協議の最終段階になって急に不許可となりました。私は知恵を絞って河川管理者に「OK」と言ってもらえる方法を考え、且つ施工金額を抑えることにも成功しました。インハウスエンジニアとして胸を張れる結果を残したと自負しています。が、組織から喜ばれませんでした。そればかりか、「余計なことをするな」と叱責されました。この事がきっかけとなり、組織が認めないなら技術士となって国に認めてもらおうという気になったのです。
また、道路の維持管理を担当していた頃です。大手建設会社の現場代理人が、補修工事の完了したトンネルについて、こんな補修をしたので、今後こんなふうにメンテしてほしいと具体的に語ってくれたのです。「良いモノを共に造ろう」という気概が感じられました。その方の名刺にあったのが「技術士」でした。技術士と言うのはこんなに素晴らしい人のことなのか、と感動したことを覚えています。
1度目で気持ちに火が付き、2度目で具体的に受験へと動き出しました。私が受験した時代は、筆記試験に経験論文がありました。橋桁の架設方法について記述し、合格したことは言うまでもありません
<一番うれしかったこと>
今社会人の息子が小学生の時、親の職業を題材にした授業で、息子は自分の父親のことを「役所の係長で・・・」などとは言わず「父は技術士で道路や橋を造ったり直したりしている」と答えたそうです。先生が「すごいね!」と言ってくれたと嬉しそうに話してくれました。私はこの一件が技術士試験に合格した時よりうれしかったのです。先生が「すごいね!」と言ってくれたことではなく、息子が目を輝かせてこのことを話してくれたことが、です。
自分の技術が社会のためになること、役に立ちたいという想いが、何となくでも家族に伝わっていたのだと思っています。
<日本技術士会での活動>
私が技術士になった時には、所属組織には三千人を超える職員がいました。その中で身近な技術士は定年を翌年に控えた大先輩がひとりだけ。そこで私は技術士会の行事に参加してみることにしました。
このことは、その後、私に大きな影響を与えました。技術士会で出会った人々は、優れた考え、知識を持つエンジニア達でした。図らずも、自分ひとりの考えや行動範囲はエンジニアとしても、社会人としても狭いものだと実感させられました。修習技術者支援実行委員会で委員を努め、その後副委員長のオファーをいただきました。技術士制度の説明で、活動範囲は関東一円のみならず近畿、北陸、中国、四国と広がり、新たな出会いも経験することができました。
<技術士受験支援の活動>
私は個人的な活動として、技術士受験を支援するボランティアも行っています。自分が受験でお世話になったことの“恩送り”として始めたものですが、いつの間にか、受験支援は、北海道、東北、沖縄へ。技術士仲間はどんどん増えていき、今では私の大きな財産となっています。
人生ですから、良いことばかりではありません。
<あきらめない心 ダービー馬の姿に感動!>
私は20代の後半で、寝たきりという経験をしました。これは、腰部手術の失敗によるもので、激痛と脚部麻痺に、落ち込みました。医師から「もうあなたの右下肢の麻痺は治ることがない」と告げられた時には、痛み以上のショックを感じました。
しかし、ショックの後は、休職して考える時間があったので、理科や数学同様、こうするとできるかもしれないと仮説を立てて立証していきました。また、1頭の馬との出会いもモチベーションに拍車をかけました。その頃の日本ダービー馬のトウカイテイオー※1です。彼も故障して長く休み、見事に復活しました。その姿に鳥肌が経ち、自分も!という気になったのも確かです。
懸命のリハビリの結果、一年半くらい経ってやっと普通の人のように歩けるようになり、数年後には北アルプスを槍ヶ岳から奥穂高岳へ縦走できるまでになりました。
想定外のことは起こるのが当たり前なのかもしれません。そうなってもあきらめない、いろんな角度から考え直してみるという経験は、寝たきりからの回復という経験をしたから身についたような気がします。
<できること、できないこと>
今まで活動の幅が広がったという話しをしてきました。しかし、同時に制限もあります。娘の介護があるためです。私の娘は重度障碍者です。
娘は生まれて少し経ってから生死をさまよう事態に直面しました。どうにか生きていてくれましたが、退院しても医療ケアが欠かせない状態でした。昼間は家人が対応してくれているので、私は仕事を終えて帰ってきてからの夜中を担当。深夜に点滴ボトルを替え、体内につながれたチューブや注射器の洗浄などが主な役割。そんなことが何年か続きました。家人が病気になっても私はまだしばらく頑張れていました。
しかし、娘が成長し、医療ケアの負担が少なくなってきたころに、私は倒れました。自分は大丈夫だと思いこむ“過信”があったのだと思います。命を落とすことがなくて本当に良かったと思っていますが、現在でもその影響は続いています。
できないことを無理にしようとせずに、他の方法を考えればよかったのです。「できることはできる。できないことはできない」ということを学びました。後に娘のことで知り合えた障碍者乗馬のおかげで、心癒される時間を過ごすことができました。
これまでの経験でわかったことは、無駄な経験はひとつもなかったかもしれない、と思うことです。みなさんもまずは一歩進んでみてほしいと思います。もちろん、失敗することもありますが、失敗は2つの良いことをもたらします。
1つは後悔を避けることができます。もう1つは、失敗を糧に原因を分析し、次の行動計画が立てられると言うことです。
失敗を過度に恐れる必要はないのだと自分にも言い聞かせるようにしています。
現在、技術士会では登録グループのIPD研究会(初期技術者教育を研究する会)に参加しています。これは、「修習技術者のための修習ガイドブック −技術士を目指して− 第3版」※2の執筆分担をしたことがきっかけで参加しています。また、委員時代の大先輩から声をかけていただいたMOTについての勉強会などもあり、充実したCPDライフを過ごしています。
女性男性を問わず、多くの技術士を見ていると、経験を無駄にしている人はいないと感じます。みなさんにもぜひ、迷ったら行動し、経験してみることをお勧めします。
私は技術士を通じて得られた今までの出会いに感謝しています。
※1・・・http://www.jra.go.jp/50th/html/50horse/48.html
※2・・・https://www.engineer.or.jp/c_topics/003/attached/attach_3637
経歴
1963年(昭和38年) 神奈川県川崎市にて出生
1987年(昭和62年) 日本大学理工学部交通土木工学科卒業後、地方自治体入庁(土木技術職)
2009年(平成21年) 公益社団法人日本技術士会 修習技術者支援実行委員会副委員長
2015年(平成27年) 公益社団法人日本技術士会 登録グループ IPD研究会(初期技術者教育を研究する会)に参加
2017年(平成29年) 公益社団法人日本技術士会 男女共同参画推進委員会委員
資格
一級土木施工管理技士
技術士(建設部門 施工計画、施工設備及び積算)
技術士(総合技術監理部門-建設 施工計画、施工設備及び積算)
※注:記事は2022年12現在のものです。
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