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男女共同参画推進委員会

女性技術士キャリアモデル 石田厚子さん

石田厚子さん(情報工学部門)

石田厚子さん(情報工学部門)

石田 厚子 さん

いしだ あつこ さん

生涯 “一技術者”として生きることが目標

 2013年8月、65歳の誕生月に、(株)日立コンサルティングを定年退職しました。そして今、石田厚子技術士事務所を設立して技術士としての仕事をし、2019年3月まで、東京電機大学情報環境学部の特別専任教授として次の世代の技術者の育成をしていました。私の目標は、生涯 “一技術者”であり続けることです。

プログラマーを出発点にソフトウエア生産技術の開発者へ

 若かりしころ、理学部数学科を卒業した私が選んだ職業は、当時の憧れの的だった「プログラマー」でした。日立製作所に入社し、システム開発研究所に配属されて命ぜられた、コンパイラーを作るためのツール(治工具)開発が最初の仕事でした。そこで受けた「疑いもせずに他人の作ったものを使ったり真似たりするのは研究者として失格。自分の頭で考えろ」という厳しい指導がその後の私の基盤になっています。
 5年後に日立を退職し、その後14年の間に、5回の転職を繰り返しました。どこでも新たに学ぶことは多く、情報技術の飛躍的な進歩とともにワクワクするような経験を積むことができました。その間、33歳のときに情報処理部門(現在は情報工学部門)の技術士資格を取得しています。一次試験と二次試験の間に次女を出産するという綱渡りの受験でした。今となっては懐かしい思い出です。
 次の転機は昭和から平成に変わるころに訪れました。当時、私は地方のソフトハウスのシステムエンジニア(SE)兼プログラマーをしていました。プロジェクトマネージャーを務めつつ、マシン室の床を這いずるようにしながら深夜までデバッグ作業をする日々が続き、その中で多くのメンバーが体調を崩すのを見て心を痛めました。その時、「ソフトウエアの生産技術がしっかりしていれば、技術者はこんな苦労をしなくて済む」と気づいたのです。
 その知見から、日立のかつての上司に「ソフトウエアの生産技術の必要性」について手紙を書いたことがきっかけとなり、42歳の時、日立製作所に経験者採用されました。その後8年間、ソフトウエア生産技術の開発者として、コンサルタントとして、国内外を駆け回る仕事が続きました。技術者人生のハイライトとも言える時期でした。

異動を契機に学位も取得、新たな境地に立つ

 50歳でバックヤードの仕事(企画部門)に移りました。ビジネス企画、経営品質、人材育成、その他もろもろの管理業務は、最初は私のモチベーションを低下させましたが、やがて、「ビジネスの視点で技術を見る」という新たなテーマへと私を導いてくれました。某大学の博士課程に社会人入学し、57歳のときに「高い顧客満足を得る商品開発への影響要因とその制御」という論文で工学博士の学位を得ることができました。
 ただし、「製品の品質は顧客(ユーザー)の視点で測られるべきである」という新しい観点を主張していたため、「製品の品質はその製品自体が持つ特性である」と主張する旧来の技術者、研究者には受け入れられず、学会提出の論文がなかなか通らずに苦労しました。
58歳からは、日立コンサルティングでコンサルタントの育成を7年間行いました。その中で気づいた「コンサルタント(主として外資系コンサルティング・ファーム出身者)と技術者のマインド、振る舞いの違い」をベースにした、技術者にコンサルタントのマインドを身につけさせる研修は、“技術者の市場価値を高める”ことを目的として、社外の方々にも実施しました。

60歳前後には、年に2回は海外の学会に出ていた(拡大画像へのリンク)

60歳前後には、年に2回は海外の学会に出ていた

(画像クリックで拡大 46KB)

自立した人生を後押ししてくれた「技術士」資格

 私は、一貫して同じテーマを追究してきたわけではありません。自分の立場や周辺の環境に合わせてテーマを変えてきています。一貫しているのは、「これを他のことに適用したら、これと他のものを組み合わせたら、これを違った視点で捉えたら、新たな価値を生まないか?」という考えかた、姿勢です。最初には、コンパイラー作成技法の研究で得たものを抽象化して、ソフトウエア生産技術に持っていきました。後には、物の品質を顧客の視点で捉えることで、商品の価値を高めることを目指しました。
 一つの会社にずっと勤め続けることができなかったため、かなり遠回りした感もありますが、一つとして無駄な経験はありません。むしろ、会社や組織にしがみつかない自立した人生が送れてきたのではないでしょうか。それを後押ししてくれたのが技術士の資格でした。これからも力になってくれるはずだと確信しています。
 20歳の時、「女性が会社で定年まで勤め、同時に家庭を持って子どもを育てることが当たり前になれば、世の中はずいぶん変わるだろう。大きな出世をするとか、大きな賞を取るとかそんなことを考えずに、男性が普通にしていることを普通にしてみよう」と考えました。男性にとっての「普通」が女性にとってかなり高いハードルであることは事実でしたが、50年以上経った今、振り返ってみれば何とかクリアできたと思います。残念ながら、世の中は思ったほど変わりませんでしたが。

私がしなかった二つのこと

 最近、多くの人が話題にし、推進していることで、私がしなかったことが二つあります。一つは、「ロールモデルを作る」こと、もう一つは、「ワーク・ライフ・バランス」です。
 自分にとってのロールモデルとなる人を作らなかったのは、結局のところお手本とする人に巡り会わなかったからかもしれません。しかし、かなり早い時点で、「お手本を作るとその人との差が気になって、かえって自分ができない理由を作ってしまい、逃げに走るのではないか」と思い至り、作らないことに決めていました。
 ワーク・ライフ・バランスについては、そもそもそんな言葉が当時は無かったので、特別に意識したことはありませんでした。私のやり方は、その時点で優先順位を見極めて、最も順位の高いことをする、というだけです。一度に沢山の重要事項が集中したら、時間を細かく区切って「タイムシェアリング」。結果としてはバランスが取れていたのではないかと思っています。
 いずれにしても、これは私という一つの事例にすぎないので、皆さんに声高に勧めるつもりはありません。おのおのがおのおのの価値観にしたがって、道を拓(ひら)いていくのがよいのではないでしょうか。

技術者人生の第2章にあたって

 65歳までの企業人としての人生が第1章とすれば、今は技術者人生の第2章です。ここでは、「市場で求められ、市場で価値を認められる技術者の育成」を仕事にしていくつもりです。社会人には視点を変え、視野を広げる研修を実施しています。
 東京電機大学の石田厚子研究室のテーマは「創造性開発」でした。次の世代を担う学生には、自分で情報を収集し、自分の頭で深く考え、柔軟に発想できる人材になってもらいたいと思います。これからも若い人と社会の課題について考えていきます。

※注:記事は2022年11月現在のものです。

添付資料

石田厚子さんのフォト・ギャラリー

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